八重山の苗字

『八重山手帳』によると、今日2月13日は苗字制定記念日である。ネットで調べると、1875(明治8)年の2月13日、明治政府が「平民苗字必称義務令」を出してすべての国民に姓を名乗ることを義務付けたのでそうなったのだという。

苗字について、八重山では大浜・宮良・石垣など地名にちなんだ苗字が多いがどうしてだろうか? とても興味深い。じつは『月刊やいま』1994年10月号(当時は「情報ヤイマ」)で新城敏男さんが書いている。この文章はのちに『八重山歴史読本』に加筆訂正されて掲載された。そこから紹介する。

沖縄で戸籍が編成されたのは廃藩置県の翌年(1880年)。それまでは平民に苗字は許されず、士族が主に領地名を苗字にした。しかし八重山では、役人層が村を領有することはなく移動(転勤)したので沖縄本島のようにはならなかった。

キーワードは烏帽子親である。烏帽子親というのは、元服の時に髪を結う人で、方言でユブシィウヤ。その烏帽子親から名をもらうというのである。新城さんは次のように書いている。

「士族は元服して欹髻(カタカシラという)を結うと、童名から○○仁屋と称する。この○○は烏帽子親をつとめた人の名である。烏帽子親は栄えている家から選ぶのが普通である。(略)従って烏帽子親が異なれば、親子でも兄弟でも仁屋名を異にする。(略)士族層の苗字はこの仁屋名からとったものが多い」

百姓はどうか。
「百姓の場合は、その屋号をとって苗字とした。百姓は普通『たら内盛』という風に書く。また『内盛や男当歳四十一 たら』などとも書く。しかし、この屋号の付け方については、まだよく分らない。これが戸籍ができて『内盛たら』となった」と。

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