受け継がれる豊年祭

八重山の豊年祭は、収穫物への感謝とこれから先1年の余祝儀礼である。農業にたずさわる人が少なくなっている現代でも、豊年祭に対する人々の姿勢は受け継がれている。
時代と共に少しずつ形を変えてきたが、人々の根っこに流れる想いは変わらない。村の結束力を強め、人々の精神的よりどころとなり、島が成り立つ上でなくてはならないものになっている。今年の夏も八重山各地で収穫儀礼と豊作祈願が行われる。

四ヵ字の豊年祭

女性の熱気が圧巻の「アヒャー綱」

 「アヒャー綱の『アヒャー』はね、貴婦人とか高貴な女性という意味があってね、ブル(貫棒)を抜く役に選ばれたら光栄さぁ」と上原さんは話す。この役目は「ツナブルピトゥ」と呼ばれ、夫が健在で夫婦円満の家庭の者が選ばれるそうだ。上原さんは1989年にツナブルピトゥを務めた。
 字新川のプールでは、シジャ役(姉役)、ナカ役(中役)、ウトゥドゥ役(妹役)という6人の女性役者が祭祀の供え物などを準備し、ナカ役の女性の1人がツナブルピトゥを務める。シジャ役は主に全体の指導役で、上原さんは去年この役だった。60年以上プールに参加し続けている上原さんは「毎年、みんながちゃんとやれるかなぁーって気になってしまうのよ。いらないお世話と思われているかもしれないけど」と笑う。シジャ役適任者の1人である。
 アヒャー綱は、女性だけで行うのだが、実際に綱を引くことはしない。ツカサ(神司)からブルを受け取ったツナブルピトゥは、他の婦人たちが真乙姥御嶽の前に準備された雄綱と雌綱を絡ませて作った隙間にブルを差し込み、綱の上に乗る。その綱はそのまま祭の中央へ運ばれ、そこでツナブルピトゥは綱から降りてブルを引き抜き御嶽へ戻す。この儀の間「サァーサァーサァーサァー」という女性たちの掛け声と巻踊りが繰り広げられるのだが、その熱気は圧巻だ。豊穣の模擬行為を示しているといわれる。
 1948年ごろまでは、字新川の女性しか関わることができなかったアヒャー綱だが、それ以降は他の女性も参加するようになったそうだ。厳しく「新川の女性」とされていた時代には、たとえ新川出身であっても別の地へ嫁いだ女性は参加できなかったという。
 祭では男性の勇壮さが目立つ奉納芸能が多いなか、アヒャー綱は女性のパワーを感じるもの。上原さんが「婦人たちがね、ない力を振り絞ってやらなければならないのだけど、それが楽しみ」と話していたのが印象的だった。(ツチヤサチコ)

自分がやらなければという気持ちを持てれば

 「伝統あるプール(豊年祭)を伝えていくことは現代に生きる私たちの責務」という思いから、10年前に発足した字新川豊年祭・保存会の会長を務める嵩本安意(たけもと・あんい)さん。「すばらしい伝統芸能を先達から受け継いできたのだから、正しく伝えたい。今、記録の必要性を感じているのです」と嵩本さんはいう。
 「私は小学生のころから祭に参加しているせいか、プールが近づくと胸騒ぎがしてね(笑)、血が騒ぐんです。笛、太鼓、俵もち(道化師のような役)、ツナヌミンの大将役、40歳でやっと旗頭を持つことができました」と嵩本の話を聞いていると、プールを行う意義などを聞く必要はないと思った。「血が騒ぐ」という言葉が現在も豊年祭を行う大きな意味であるように感じた。
 終戦直後(1947~8年ごろ)までは、字新川5町内と4町内の一部の農家が祭を仕切っていた。収穫を感謝し豊作を祈願する祭であるだけに、出演者も農家に限られていたので、他の町や字の人々から「祭の時は羨望の的だった」という。祭の由来は、真乙姥御嶽(マイツバーオン)の前で婦人たちが願解きとして行った綱引き。この綱引きが「アヒャーマ綱」または「アヒャー綱」と呼ばれるようになり、この綱引きをすると五穀豊穣であったことから豊年祭の行事をするようになったそうだ。また真乙姥御嶽は、神職・永良比金(イラビンガミ)に就いた真乙姥がアンナン(現ベトナム)で授かった良質の穀物の種によって、石垣島はもとより八重山の農業が潤ったという話から、死後神体化された真乙姥の墓は拝所となり、御嶽となり、真乙姥御嶽の神は五穀豊穣の神としても崇められている。
 現在のような形で四ヵ字豊年祭が行われるようになったのは与那覇在番(ルビ・よなはざいばん)の時代(1778~80)からといわれている。220年以上の歴史ある祭であるが、ここ60年争われている問題があるという。「新川巻踊りの歌で『フナーブス』があるのですが、その3番で『ムンツクリ ミリバドゥ』という歌詞があります。後に続く歌詞や、大正時代の新聞の記録からも出だしは麦の意味である『ムン』で正しいと思うのですが、物の意味である『ムヌ』と歌ってきたのだから、そう歌うべきだという意見もあり、対立してしまうんですよ…」と嵩本さんは話す。そのほかにも指導者によって太鼓の持ち方、ツナヌミン大将の所作に違いがあるなど、教わる側が困ることも。「どこで間違えてしまったか、変わってしまったのかはわからないのですが、芸能を保存するためには記録をまとめたい」。
 農民だけで行っていたときは、農業に勤しむためにやる気を起こさせる年1度の楽しみ、生きがいでもあったプール。生活形態が変わった今では農家は減り、旧暦通りに準備作業を行うのも仕事の都合で人が集まらない。本番前の練習に集まるのは、ちゃんと覚えているメンバーばかりで、練習が必要な人ほど参加してもらえない現実。参加者を増やそうと男性がやっていた踊りに子どもや女性に参加してもらおうとすると、「歴史を変えるのか?」との意見。
 さまざまな問題を抱える現代のプーリであるが「神に感謝する」という根の部分は引き継がれている。無病息災、子孫繁栄を願う気持ちも健在だ。嵩本さんは「プールで唄うと鳥肌がたつことがあります。先代が人頭税などで苦しんできた気持ちが伝わってくる気がします。シンプルな音の美しさも魅力です。自分がやらなければ、という気持ちをみんなが持っていれば継承されるのではないでしょうか」と。
 義務感から行う物事は、楽しみが薄らぐ。「祭の前の胸騒ぎ」は、子どものころから参加していればこそ、祭を待ち焦がれる気持ちだと思う。継承を義務に置き換えず、心から楽しみな祭であり続けることを願いたい。(ツチヤサチコ)
 ※字新川では「プーリィ」ではなく「プール」と表記するそうなので、あえて「プール」にしました。

四ヵ字プーリィのクライマックス、大綱引きの「綱作り」の悩み

 新川自治公民館長を務める漢那憲昌さん。漢那さんの父は農業を営み、漢那さん自身もその後を継いでいる。子どものころから漢那さんにとってプーリィは、実りを感謝し豊年を祈願する、生活に密接した行事なのだ。
 「祭のことを聞きたいのなら、10日前にムラズルイで決まる準備委員とか、保存会の役員に聞いたほうがいいんだけどねー」と控えめながら漢那さんの思うところを語ってくれた。
 四ヵ字のムラプールでは、意匠を凝らした旗頭が字新川の真乙姥御嶽(ルビ・マイツバーオン)の前に集まり、奉納舞踊や女性だけで行うアヒャー綱、ツナヌミン、大綱引きで祭りは最高潮に盛り上がる。漢那さんは「ムラプールは大切なもので、もちろん継承していきたいのだけど、5分間で終わってしまう大綱引きの準備が大変でね。綱作りは経験のある大人約25人でやっても2日はかかります。最近は農家が減っているいから、人手もワラもなかなか確保できないんですよ」と話しはじめた。
 綱を作るためのワラは、手で刈ったものしか使えないそうだ。最近はご存知のように機械で稲の刈り取りを行う農家がほとんどで、綱用にワラを用意しなければならない。これが「ピトゥマラギ(一束)が350はないと大綱は作れない」という。ワラは新川地区の農家から買い取るのだが、このワラを確保するため祭に合わせて農協が稲を植える時期を決める。そしてワラは1週間ほど田で乾燥させるが、濡れてしまうと3日で発酵してしまうので農協の倉庫を借りて保管するという。
 「毎年大綱にね、55万円以上かかってしまうんですよ。これは結構大きな負担でね…しかし字新川が責任もってやってきている歴史があるから簡単に変えられる話ではないことはわかっています。でも今後、祭を続けていくためには各字で負担していけないか、という提案をしていこうかと思っています」と漢那さんは話してくれた。
 そのほか人手も減っている昨今、解決手段として八重山農農林高校の生徒に応援を頼んでいるそうだ。祭全体の準備を行う委員は、経験者が減っているので何度も同じ人物にお願いしなければならないという心苦しさを感じるという。継承したくても多くの若者が島を離れていくことは、止めようがない。
 華やかな四ヵ字のプーリィだが、抱える悩みは解決できるだろうか? 昔ながらの盛大な祭を求める観客は増え続け、大きく変わった社会システムの中で継承していけるか危惧する字新川の関係者たち…継承という点では字新川だけの問題ではない。世果報(ルビ・ゆがふ)島のプーリィが信仰深い人々の心のよりどころとして残っていくことを願う。(ツチヤサチコ)

白保の豊年祭

オースクマ願い(青い初穂の願い)

 「この願いが終わらなければ、決して豊年祭の期日を誰も公言してはならなかったんです」
 白保の郷土史家、石垣繁氏は、そういうと、少し顔を紅潮させていた。
 「よく、本土のマスコミから白保の豊年祭はいつですかと聞かれるのですが、答えてはならないんです。マスコミ泣かせなんですね。」
 今、その白保の豊年祭が決まる時を、迎えようとしている。白保村の中でもっとも盛大な豊年祭。その期日が、決まる重要な儀式なのある。

8月5日に決定

 今年新たに公民館役員に抜擢された人々が、御嶽のそばで神司が揃うのを待っている。彼らも、少しそわそわして見える。記者が集まってメモをとる輪の中に、石垣繁氏が説明をしている。2004年6月18日、午前10時30分ころ、オースクマの願い(ニンガイ)が、白保給油所の南にあるムラヌクシヌ御嶽(村の後方の御嶽)でおこなわれた。この日は旧暦の5月1日と決まっている。白保の嘉手刈御嶽、真謝御嶽、波照間御嶽、多原御嶽の4人の神司が揃ったのは、予定の10時を30分ばかり過ぎた頃。
 神司は、日常の延長でもあるように仕度を始めた。遅れた神司にちょっと、一言いうように、神司の衣装を風呂敷から取り出し、袖に腕を通しながら、誰にいうでもなく、「花を生けたり、今日は忙しくて」すると、誰かが「花? 御嶽に花?」誰ともなく「いいや、御嶽ではないよ」などと、軽く言葉を交わしながら、神司は仕度する。
 やがて、紅芋でつくられた神酒を前に、石垣に囲われた一角で4人の女たちが座り込んだ。フクギの大木が御嶽を占有している。4人は一瞬、静かになると同時に、誰かが声をかけるわけでもなく、ぱらぱらとほぼ一斉に手を合わせた。手のひらで何か、わらでも編むように、リズミカルに手を回しはじめる。口の中で神へささやくような言葉が石積みで囲まれた静かな御嶽に透明に響き渡る。石積みからこちら側の一般道はスクマ道(みち)と呼ばれる。昔から初穂を運ぶ道であった。御嶽とは、40センチもない石積みを隔てる幅だが、その内側には明らかに異空間が感じられる。
 4人の祈りが一通りすむと、芋の神酒をいただいた神司は、御嶽から出て、スクマ道に出る。横一列に並んで手に稲を捧げ持ち、一礼をした。そこで儀式めいたものは終了。リラックスして普通の所作にもどり、暦を取り出して、さっそく日程を決める。公民館長に5日はどうかとひとりの神司がいえば、公民館長はそれで結構ですと承諾。決まった瞬間である。8月3日から5日まで。村プールは5日だ。

まえぴより
 白保ではスクマをして豊年祭を決めるが、ほかではそうはしない。だいたい年末に明けに新役員が、一年の日取りを決める。ところが白保は、その年の作物の出来具合を見ながら決める。
 「作物を見て、豊年祭をいつするか決めるのです。」と石垣氏。この日、7つの稲の束がこの儀式のために用意されている。7箇所から集められた稲だ。見事に黄色く色づいている。
 「昔は、オースクマが終わらないと、収穫してはならなかった」とも。初穂を神にささげなくては、収穫できなかったのだ。だから、昔は、隠れて収穫したという。今はない。なぜ、収穫物を見て豊年祭を決めるか。それは、村中で収穫が終わる日を見計らうためだったという。この日に取ってきた稲を見て、あとぴよりとめえぴよりのどちらにするかを決める。
 今回は、旧暦の6月18日、まえぴよりの日となる。石垣氏によれば、白保の豊年祭は、十干でのミズ(壬:みずのえ、癸:みずのと)の日はとらない。四か字や宮良はミズの日をとる。だから、市街地や宮良の豊年祭とかち合うことがない。白保は豊年祭で甲(きのえ)乙(きのと)をとり、種子取祭ではミズをとるという。
 かくして、今年の白保の豊年際は、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)の3日に決まった。

今年の実動隊は生まれ年「申」の人々
 役員が、芋の神酒を飲ませてもらっている。公民館役員は、正月に生まれ年のお祝いを催すとき動いた49歳の人々から9名が選ばれ、一年間のムラの行事を取り仕切る。(公民館長だけは別に選ばれる。)いわば小中学校時代の同級生の人々で運用されることで、やりやすくなっている。この日、芋の神酒をはじめて飲むという役員のひとりは、その旨さに驚いていた。豊年祭のときの米の神酒しか経験がないのだ。神にスクマの願いをする場合、初穂を供える以上は、神への神酒は米ではつくらない。芋をつかった神酒となる。
 「どうですか」と記者にもすすめている。
 芋の神酒を進められて一献いただけば、意外な味だった。スクマの神酒はわずかに甘くて、高級なワインがもつ淡白なさわやかさを舌に残す。それは紅芋で作られており、新米は使われない。もちろんアルコール分はない。
 神司は「誰も飲まないと思ったから、砂糖は入れていないから」という。
 「いいや、これが旨い。砂糖はいらない」
 そういうやりとりをしながら、やがて神司らは、それぞれ4箇所の御嶽で願いをおこなうために移動。この日、集められた稲の束から9つの米粒が抜き取られ、それを紙に包んで神に供えられるのだ。急ぐのは、この日の祈願が夜までかかるから。まだ農業と密接な神事を維持している白保である。

心意気
 公民館行事を取り仕切るのは、公民館役員だが、白保の執行部員は、今年は皆申年だ。生まれ年のお祝いのメンバーで公民館執行部を担うのは、実は8年前からのこと。
 白保には新石垣空港問題で公民館が2つに割れていた時期がある。これが戻ったとき、以前のように、また誰かが公民館長をやると、保革の色分けで公民館を見てしまう。そこで、8年前の生まれ年のお祝いのあと、その生まれ年を祝った彼らから公民館執行部を引き受けると、名乗り出た人たちがあった。2つに分かれていた公民館が、ひとつに戻ったのを期に、二度と保守VS革新の色眼鏡で見られないようにしたいと、率先して名乗り出たのだという。共同体がもつ有機的な絆が、この話ににじみ出ている。これは、その心意気を継ごうと、毎年のことになったという。
 豊年祭行事に限った話ではないが、この愛郷心の勢いこそ、白保の豊年祭、否白保集落がかもし続ける雰囲気かもしれない。この話を聞いて、共同体の原動力に触れた気がした。今年の役員らは、このオオスクマを終えて、次は豊年祭の桟敷の清掃から、各班による稲の一生の実行委員会や、旗頭や太鼓隊の責任者との打ち合わせに入るという。心意気が形をなす。豊年祭の核とアウトラインに触れた思いがした。

川平の豊年祭

 豊年祭の中でも異色な「びっちゅる」。
 毎年、八重山の豊年祭シーズンのスタートを飾るのは川平である。川平は年間26の祭り行事を実施する神事部が公民館に設置されている。なかでも3大行事の豊年祭・結願祭・節祭は有名だ。川平の豊年祭は1月にすでに決められている。今年は7月2日だ。川平の御嶽は4つ。浜崎御嶽、群星御嶽、山川御嶽、そして赤イロ目宮鳥御嶽。この赤イロ目宮鳥御嶽では、大きな石を持ち上げて境内を回る「びっちゅる」という儀式がおこなわれる。
 奉納される石の重さは60キロといわれるが、定かではない。毎年、豊年祭の日に石へ供物を捧げ、石を境内の中央に出し、最初に持ち上げる人、大屋広男さんに話を聞いた。

年に一度
 「今でも、怖いと感じることがある」
 大屋広男さんは、17年びっちゅるを担いできて、いまだにそう思うという。彼は「びっちゅる」を守っているこの石の家元(ヤーモト)にあたる。
 「60キロぐらいあるといわれている」と大屋さん。最初に不安はなかったか聞いた。すると「17年前は40歳前半でもあり、あがるとは思った。」という。
 都会から郷里川平に帰って彼はわずか1年後に、びっちゅるの大役をまかされた。父親が、突然亡くなってしまったからだ。周囲の長老には、85歳の高齢で逝った父親は70歳まで担いだといわれた。最初は、カマンガー(御嶽の管理者)の大浜永太郎氏に口頭で教わって、ぶっつけ本番である。練習はできないのだ。以来、17年この大役を受け継いでいる。
 「神行事であれば、毎年、1回しかできないですから」
 父親は、何も教えてくれなかったという。父親も同様に、教わっていないのかも。毎年、行事を見て覚えることを、無言で示す意味もあって、何も伝えなかったのかもしれないと大屋さんはいう。石は、つるつるした川石のようだが、伝説では海で投網にかかっている石だ。成長する石とされる。重い石が持ちやすければまだいい。つるつるした石で、手のひらにかからない。持ち上げるには、両腕で抱き上げなければ、肩にはあがらない。力で上げようとしてあがるものではないのだ。また肩には、バランスよくのせないと境内を回れない。
 また、回る回数が奇数と決まっている。石を途中で落とせば、凶作になるとされる。大屋さんが17年たっても、今も不安だというのは、いつ、持ち上がらなくなるか不安だということ。
 「毎年、肩が赤く腫れます」。半端ではない重さだ。
 「最初に背負う場合は、砂をかぶっていないので手は滑りません。石は2度目から降ろされたときについた砂が細かく付着して、すべるんです。だからあとの人の方が大変です」これは、もったものにしかわからない話だ。

意外に新しい
 「曾々おじいさんがはじめたといわれています。」と大屋さん。歴史はそんな古くはないという。ざっと150年前ぐらい。
 どこも豊年祭が近づくと氏子が集まってお供えの手配をする。曾々おじいさんがお供えの魚を取りに海へ行き、投網を投げたところ、何度も同じ石がかかったことから、これは何かあると考え、その石を豊年祭に奉納。以来、毎年豊年祭のときに、石を持ち上げて、皆に披露するために石を担ぐのだそうだ。石は、不思議なことにい少しづつ大きく成長し、今の大きさになったといわれている。ここまで大きくなりましたという報告の披露だとされる。
 昔は、青年がたくさんいた時代でもあり、誰もが持てたわけでなかった。選抜されて、村の力自慢に抜擢されたという。奇数回、境内を石を持ち上げて回ることになっており、人より多く回るには2周回、回らなくてはいけなかった。半端な腕力の違いでは、やり遂げ難いものになっている。

意味を求める必要はない
 どうしても意味を求めてしまうのが取材者。なぜ担ぐのか。担ぐ意味を知りたくなる。
 「祭りをする側に意味は不要です。どんな祭りもそんなはず。」そこでどうこう意味をつけて解釈をすれば、そこで意味は狭くなってしまうという。どうして、石を持ち上げるかを言葉で決めても意味はない。
 成長した石を披露する意味は、簡単ではない。石にまつわる神事が意味することは、深いものがあるはずだと。大屋さんは、それ以上は何もいわなかった。
 さまざまに言葉であらわしても、たとえ間違っていなくとも、それだけではないのだという。やっている人には、意味はある。それを言葉にして表わし切れかといえば、それはできない。「見せるためのものではないんです。」と大屋さん。
 見る人がどう解釈しようが、祭りをする人には重要ではないのだ。島人には小さい頃から見慣れている豊年際の風景は、村そのものの一部。村に溶け込んでいる。そして疑いなく、存在する行事がそこにある。

なぞかもしれない
 豊年祭には、なぞのような不思議なことがある。八重山の祭りを10年取材してきて、いつも始まる前に不思議に思いながら、祭が終わると忘れてしまうことがあった。それは待たされること。よく待たされた。なぜ、こんなに待たされるのか。そして、祭りが終われば、まったくその疑問は、頭から消え去る。待っていて、主催者側も痺れを切らせてくると、返答はあった。あるときは満潮に合わせているといわれ、あるときは神司の祈願がまだ済んでいない。聖域であるイビから神司が出てこない以上、そこには日常の時間は、後にされる。
 かくして、何時からはじめると正式に発表されたことはない川平の豊年祭。ことに赤イロ目宮鳥御嶽のびっちゅる石は、取材者泣かせの豊年祭でもある。ただ、なぜか最後の山川御嶽からの旗頭と群星御嶽からの旗頭が、赤イロ目宮鳥御嶽に到着して、頭の奉納がある時間に、びっちゅるはきっちり終了している。これは事実である。いつも、帰りは同じ光景を目にする。まるで、旧盆の初日、アンガマを見たあとに見る月がいつも13夜であるように。
 「昔は時計のない時代。神司が決めている時間とおりに進められる豊年祭ですが、それが何時から何時というものではなく、しかし、神司にしかわかない時間ですから、何時とはいえない。しかし、神司にしてみれば、しっかり決められているようです」
 昔は、何事も口での説明はなく、それでも引き継がれた。神への思いと、それに伴う行事を見守り観察するするどい目が、神事を受け継いでいるとすれば、共同体の生命がそこに宿っているとしかいいようがない。意味を明らかにし、祭りを対象化することは、狭義に閉じ込めてしまうことになる。村の共同体が一体となっているところに、何の意味づけが必要だろうか。川平の豊年祭は、実は御嶽プールだけがおこなわれているように見える。豊年祭の時間の9割方が御嶽での神司の祈願である。ところが、最後にロータリーで、2つの旗頭とびっちゅる石の奉納が終わるタイミングがあるとすれば、なんらかの連携があることになる。
 ムラプール的なものがおこなわれているかもしれない。豊年祭では、氏子が手配して神への奉納する供物を用意し、御嶽に集まって神司による神へ祈願を待つ。氏子が今年の豊作を感謝し、来夏世の豊作を祈願する気持ちを、供物を捧げるための行動を通して、神へ向きかえっている。供物を用意する作業から、すでに氏子の心の中では奉納する神事がはじまっているとすることを、知らされた話である。

川平の豊年祭とびっちゅる石

 びっちゅる石はあくまで、奉納されるもののひとつ。神事ではないという。60キロあるといわれた石だが、昔、黙って計った人があったという。なんとその人は村中の人から制裁を受けたという。誰も測ってはいけないものなのだ。この長い石は、持つ場所がないために、抱きかかえてしか担げない。しかも、肩に背負ってから奇数回、回らなくてはいけないのだ。「ゆい!」と、気合を入れて回るのだが、どんな力自慢も苦戦するようだ。余裕のある人は、膝を深く折って、腰を低くして余裕を見せる。そこで、見る人が、その腰の具合をほめることになる。
 10年前は、担ぐ人が少なく、飛び入りも歓迎されていたようだが、今は担ぐ人が多く、氏子が優先なので、誰もが担がせてはもらえない。氏子で若い担ぎ手が増えているようだ。
 川平でも、かついで見たいという人がたくさんいるが、4つの御嶽で同じ日に豊年祭をするため、赤イロ目宮鳥御嶽へは川平の人でほかの御嶽の氏子はこれない。だから、川平で、この行事を知る人はここの氏子だけである。なお、石垣辞典によると「ビッチリ」は、突き当りに置く魔よけの石のことだとある。そういえば、赤イロ目宮鳥御嶽は三叉路と、小さな道の交差点。そこを昔はロータリーにしてあったはず。「びっちゅる」と似ているが、そのとおりかどうかは不明である。

赤イロ目宮鳥御嶽とは

 川平集落の消防分団のロータリーの前に赤イロ目宮鳥御嶽がある。昔は、宮鳥御嶽へ通っていたという氏子が、分家してこの地に、赤イロ目宮鳥御嶽をつくった。以来、四か字の宮鳥御嶽の分家として、存在する。

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