八重山の戦争と皇民化教育

戦火の前ぶれ-教員の弾圧

 昭和初期、アメリカに端を発した世界大恐慌は日本にも波及し、東北では娘の身売りをするなど国民生活は日ごとに苦しくなっていった。
 八重山でも初の労働争議が突発。料亭への娘の身売り、失業者の増大など、社会不安が深刻になってきた。教員の給料不払い等が続出。新聞では「俸給を支払ってくれと竹富校教員役場に押しかける」(昭和5年)、「教員の俸給未払いで生活難となる」(昭和5年)、「盆祭を前に控え俸給不渡の石垣町教員大恐慌」(昭和7年)と報じた。教員の1人は新聞で訴えた。「教育者なればとて、3度の食事をせずとも仕事ができる筋合いのものではない。今に欠食教員が出るに違いない」「衣食足りて礼節知る」「これ以上我吾は苦しみに堪え得ない」(八重山民報・昭和7年7月1日)
 教員生活の困窮もさることながら、児童生徒の学校生活も脅かされた。家庭経済の一助として学校を休み奉公に出るものが続出したかと思えば、学校には来るが朝食もとらず青白い顔(貧血)で登校する生徒。とにもかくにも不況の波は、もろに学校教育にも影響してきた。
 昭和5(1930)年6月に県学務部の「不景気と学校教育」の調査について、各学校現場から次のような回答が届いた。
 一、就学児童を下男、下女、奉公に出す
 一、手伝いのため欠席がち
 一、古本使用の児童著しく増加
 一、学用品不足、不備
 一、子守、草刈奉公に出す
 一、貧困のため朝食をとらず、或は半食して登校す
 一、高等科入学者、著しく低下
 一、中等学校志願者、低下
 一、高等科半途退学者増加
 一、児童を海外移民に出さんとする傾向著し
 一、遠足、旅行を父兄喜ばず
 一、雨天に雨具を持つ児童なし
 また「県が八重山郡の小学校の欠食児童調べを行ったところ、石垣町37名、竹富町18名、計55名の哀れな欠食児がいることが判明した」(先嶋朝日新聞・昭和7年7月13日)。
 そのような時代背景のなか、八重山教育界の中で、社会研究グループの活動が始められた。昭和5年10月、小学校教員等7名により「生活権の擁護、社会機構の民主化、労働者・農民の貧困からの解放をめざし」、「日本教育労働者組合八重山支部」が組織されたのである。会のスローガンは、特高警察編「厳秘・特高月報」によると
 一、俸給は定期日に支払え
 一、教育の政治化絶対反対
 一、不意馘切、不意転勤絶対反対
 一、教育部会の民主化
 一、過重労働反対
 であった。約2ヶ年続いたこの運動もついに昭和7年12月、弾圧されることになる。あくまでも「生活の擁護」を主目的としたものであったが、アカ=共産主義者としてレッテルをはられ検挙されたのであった。中心人物は戦後県議となった宮良長義氏や、石垣市長を務めた桃原用永氏等12名であった。いずれも懲戒免職、或いは依願退職となり教職を去らざるを得なかった。そのときの様子を当時小学生であった1人が次のように語っている。
 昭和7年、ちょうど私が6年生のとき、ある日学校はただならぬ雰囲気に包まれていました。その朝、担任の先生が突然警察署へ連行されたということでありました。かわりに女の先生がこられ、自習をやらされたが、私共は学習そっちのけで、不安な面持ちでおたがい囁きあっていました。聖職である教師が、仮にも警察にかかわり合う不祥事をひきおこす筈がないと考えていたので、私共は一様に強い衝撃をうけました。翌日、先生は〈アカ〉に染まって検挙されたことをきかされましたが、しかし〈アカ〉とはいったい何なのか、幼い意識では理解できませんでしたが、〈アカ〉という語感や色感からうける強烈な調子が恐怖となり、幼いながら得体の知れないおどろおどろしい不条理の漂いを感じたことを昨日のようになまなましく思い出します。(「登野城小学校百年の歩み │ 森田孫榮」)│
 それ以後、社会批判の芽は摘みとられ、政府の一方的な国策に操作され、軍国主義教育の深下が図られたのであった。

教育勅語と御真影

 教育勅語は明治23年10月30日に発布され、八重山の石垣南小学校(現登小・石小の前身)では同年12月15日に初の勅語奉読式が挙行され、以後10月30日には勅語下賜記念勅語奉読式が挙行されている。10年後の明治33年から勅語御下賜記念運動会が同日に催されている。勅語奉読は入学式、始業式、卒業式、四大節等の儀式でうやうやしく行われた。
 御真影(天皇・皇后の写真)の第1回目の奉戴式は明治24年1月30日であった。その後天皇がかわるたびに奉戴があった。
 教育勅語はすべての学校に下賜されたが、御真影は模範校に下賜され天皇に対する忠誠心を煽る役割を果たした。
 昭和6年2月、郡下の登野城小、石垣小、大浜小、竹富小、与那国小へ御真影の奉戴があり、つづいて6月、白良小へ御真影が下賜された。
 折しもその年、日本は中国への侵略を企て満州事変を引き起こし、泥沼の戦争へと入り込んでいったのであった。
 教育勅語は、天皇制教育の精神的支柱であり、その儀式のかもしだす荘厳性、宗教性、神秘性のなかで児童生徒は知らず知らずのうちに、皇国民としての自覚を深めるようになっていった。これら詔勅等は、学校長の命よりも重いとされていた。
 本土では詔勅を持ち出そうと、火の海と化した校舎に飛び込み焼死した校長もいた。鳩間国民学校長も戦争末期、詔勅等を安全な場所に移動させる途中、米軍機の銃撃により殉職している。
 戦局の悪化に伴い各学校の詔勅等は、避難地の1つであった白水の八重山支庁壕に保管され、終戦後石垣国民学校の奉安殿に移されたが、最後は宮鳥御嶽の境内で焼却された。軍国主義教育の終息であった。

標準語励行運動

 昭和11年9月、県下校長会において、県学務部から諮問があった「現下の状勢に鑑み標準語を一層普及徹底せしむる具体的方案如何」に対して審議がなされ、後日「国語愛護国語尊重の精神を徹底を計ること」「標準語使用習熟の機会を多からしむこと」「レコード・映画の鑑賞をなさしむること(但し標準語普及に障碍を来すレコードの鑑賞を禁ずること)」「家庭に於いても標準語使用を励行すること」等の答申がなされた。また県社会課が募集した標準語普及標語には、小学生の「いつもはきはき標準語」「沖縄を明るく伸ばす標準語」「よい子はいつも標準語」「一家そろって標準語」が当選した(先嶋朝日新聞・昭和14年8月27日)。八重山でも学校から標準語励行運動が始まり、役所・家庭・地域全体へと広がっていった。
 そのトップを切ったのは、石垣小学校である。標準語指導として、
 一、校の内外を問わず、児童同志は必ず標準語を使用すること
 一、感嘆詞であっても方言は許さざること
 一、故意でなく不用意の間に発する方言でも許さざること
 一、知らざるがために方言を使用することも許さざること
 を決めた。「標準語の使用励行は、東亜の盟主とならんとする現時局から考えても、国策に沿うもの」(海南時報・昭和14年4月29日)と支持された。そして同校は標準語行進曲を制定、学区内を大行進した。歌詞は5番まであり、1番は次の通りである。「御代は昭和だ 興亜の風だ 僕等は明るい 日本の子供 けふもニコニコほがらかに 言葉ははつらつ 標準語」
 その翌年、昭和15年に日本民芸館の柳宗悦が来県し、沖縄県の標準語励行運動は行き過ぎと批判し、沖縄文化の再認識・再評価を説き、県学務部との論争へと発展。論争は中央(東京)にまで飛び火した。
 石小で標準語励行運動の先頭に立った桃原用永は、戦後「標準語励行運動は八重山の文化(方言)を否定したものではなかった。子どもたちの命を守るためだった。軍国主義の世の中で方言をしゃべると、スパイとみなされたり素行が悪いということで二等国民と称され、殴られたり、ひどいときには死に至らされる。子どもを守るためにやむを得なかった」と話した。
 実際、沖縄戦の末期、日本軍は「方言を使うものはスパイとみなす」と通達を発し、事実、処刑された者も多い

建民運動

 昭和15(1940)年は神武天皇即位から2600年とされ、この年は国を挙げての奉祝一色であった。各小学校で紀元説拝賀式が執り行われ、登小では2月に「紀元2600年記念、輝く国史絵画展」が開催され、3月には2600年記念興亜学芸会が催されている。
 6月には郡民挙げての「紀元2600年奉祝銃後奉公祈誓大会」が催され、5年生以上の学童も参加している。運動会の名称も「皇紀2600年教育勅語50周年奉祝大運動会」となる。
 その年の明治節11月3日(現在の建国記念日)、日本国初の「優良多子家庭」が発表され、厚生大臣より八重山支庁長を通じて「子宝表彰状」が伝達された。
 琉球新報昭和15年10月19日号は「生めよ殖やせよ、国の宝」と見出しを付け、「聖戦下人的資源が益々貴重なものとなる折柄、生めよ殖やせよと国策に沿った」ものと報じた。「名誉の国策家庭の資格」とは「満6歳以上の嫡出の子女10人以上を実父母自ら育てたもの」「子女は全部心身共に健全であること」など4条件をあげた。
 その年、表彰を受けたのは全国で1万336家庭、沖縄は75家庭、八重山郡から7家庭であった。昭和16年11月3日の子宝表彰は沖縄は29家庭、八重山は2家庭。昭和17年は沖縄は11家庭、八重山は1家庭で年々減少の一途をたどる。
 昭和17年5月には「大東亜建設に処する文教政策」で、「国防・産業・人口政策等各般の総合的養成に基づき、皇国民の錬成を行う教育体制を確立する」とされた。この人口政策は、ナチス・ドイツを手本にして策定された。兵力及び銃後の護りの不足をきたしている軍部にとって人口増産は急務であった。しかも「建民」でなければならなかった。
 学校においても時局の要請として「建民運動」が展開された。登小においては昭和17年5月1日から10日まで、また石小においても5月1日、建民運動諸行事が実施されている。生めよ殖やせよ未来の兵士、というわけである。

国民学校の発足と教科書

 昭和6年4月1日から、約60年間親しまれてきた「小学校」という名称が変わり、「国民学校」となった。
 これまでの小学校令における教育目的は「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳及国民教育ノ基礎的並其生活ニ必須ナル普通ノ知識技術ヲ授クルヲ以テ本旨トス」となっていたが、国民学校令では「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ成スヲ以テ目的トス」と大転換していた。
 文部省「学制百年史」によると、国民学校令による「皇国の道」とは、教育勅語に示された「国体の精華と臣民の守るべき道」をさし、端的にいえば「皇運扶翼の道」と解されたのであった。
 「皇運扶翼の道」とはいうまでもなく教育勅語に示された「一旦緩急アラバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶運スベシ」ということである。戦争になれば身(死)をもって国のため、天皇のため尽くせよということが最終的な教育目標となったのである。
 資料として残っている「昭和十八年度・登野城国民学校の教育努力目標」の一は「国体観念ノ明微、日本精神ノ昂揚」であった。
 当然、国民学校の目的にそって教科書も編成されていく。その「第五期国定教科書の基本的性格は、超国家主義、軍国主義の教科宣伝ということであった」(唐沢富太郎「教科書の歴史」)
 国民学校の中核的教科として修身科は最も重要視された。
 修身科は「皇国ノ道義的指令ヲ自覚セシムル」(国民学校令施行規則第三条)とされたが、それはまず、「日本ヨイ国 キヨイ国 世界ニ一ツノ神ノ国」などによって、世界に比類なき「国体」としての「神国日本」の観念を養い、その「日本の国」=「皇国」の使命として「大東亜共栄圏」「八紘一宇」の建設を説き、それを「聖戦」とし、その実践者としての「皇国民錬成の教育」をめざしたのであった。
 情操教育としての音楽も高学科にいくにつれて国家主義的内容となっていく。これら教科書はお互いに有機的に関連しあっていた。 例えば、ヨミカタで「ヒノマルノハタバンザイ」を教えると、修身では「テンチョウセツ」、音楽では「ヒノマル」をうたわせ、図画では「ヒノマルノハタ」を描かすという具合であった。

校舎の兵舎化

 日本軍が八重山に駐屯するようになるともともと八重山には兵舎というものがなかった為、学校を兵舎として強制的に使用した。
 学校を追われた生徒は民家や御嶽の境内を仮教室として利用した。空襲があれば近くの壕に逃げ込むなどのくり返しで、まともな授業はできなかった。
 校舎は終戦時に与那国を除いてすべて破壊されていた。

星になった子どもたち-マラリア病死

 八重山に日本軍が初めて進駐したのは昭和16(1941)年、西表の船浮要塞銃砲兵連隊であった。石垣島には昭和18(1943)年、平喜名飛行場に観音寺隊が駐屯。昭和19(1944)年5月に宮崎旅団が駐屯して本格的な戦闘体制が確立された。沖縄戦の戦局は思わしくなく、敗戦の色を濃くしていった。
 八重山の日本軍は、戦闘作戦上、住民を山岳地帯へ避難せよとの軍令を発した。そこはマラリア有病地、食糧もなく、薬もなく、栄養失調となり、体は日に日にやせ衰え、マラリア病にかかり、高熱にうなされ体は寒さでガタガタ震え、多くの人々が死んでいった。
 八重山の人口3万8600人余のうち、約半数がマラリア病にかかり、そのうち3600人余の人々が死んでいった。特に西表南風見に強制疎開させられた波照間住民の犠牲は多く、人口の3分の1、477名が死んでいった。波照間国民学校の児童生徒323名のうち66名がマラリアにかかり、夜空の星となった。
 南風見の海岸には、当時の青空教室であった場所に「忘勿石」の碑が建っている。当時の校長・識名信升が刻したものである。「この悲劇を忘れることがないように」と。多くの子どもを守ることができず、教師としての自責にかられ、無念の思いで刻んだ心境が伝わってくる。
 南風見の海岸の見渡せる波照間の海岸には「学童慰霊の碑」が建っている。碑文には「太平洋戦争末期1945年4月8日、西表島南風見へ強制的に疎開させられた全学童323人はマラリアの猖獗により全員罹患、中66人を死に至らしめた。かつていた山下軍曹(偽名)は許しはしようが然し忘れはしない。本校創立90周年を記念し、はるか疎開地に刻まれた『忘勿石』を望む場所にその霊を慰め、あわせて『恒久平和』を願い碑を建立する」とある。
 東亜の盟主たらんとした日本軍国主義の戦争政策、軍国主義の結末は多くの児童生徒の悲劇を生んだのであった。

平和教育の実践を

 昭和16年4月に国民学校が発足し、教育方法、内容は軍国主義的なものになっていく。
 同年12月8日、日本のハワイ真珠湾奇襲攻撃によって日米開戦となりアジア・太平洋戦争の火ぶたが切られた。その戦争を教師たちは「聖戦」と教え子どもたちを戦場に送り、多くの命を失った。教師たちは心の中に大きな傷を受けその反省から教壇を去る者もいた。一方良心の呵責から教職に踏みどとまり、憲法の精神に立脚した平和教育の実践を歩む決意をしたものもいた。
 いずれにしても軍国主義教育は児童生徒に多大な犠牲を強いた。
 再び過去の悪夢を招来させない為に、日本国憲法、教育基本法の精神をかみしめたい。

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